20230208

「推し」という言葉があまり好きではない。「推」という文字に「他人に薦める」という厚かましい感じを受けるからだ。自分は推し(と、便宜上表記する)のことを他人に知ってほしいとは思わない。他人と同じ推しが好きだったところで、推しに対する解釈は一人ひとり違うのだ。自分は好きなもので解釈不一致を起こして仲違いをしたくはないので、いわゆる同担拒否かもしれない。(むしろ嫌いなもの、許せないものを同じくする人間の方が信用できる。)

特定のコンテンツを好きになる瞬間、推しができる瞬間というのは、自分の人生がネガティブな要因でどん底に落ち切った時点でもあると思う。出会い方を間違えれば、人生をいとも簡単に狂わされる。だから推しのことについて話すとき、自分は極度に緊張する。それは人生の開示でもあるからだ。隙あらば自分語りとはよく言われるもので忌避されがちなのだが、いやそりゃそうなるでしょ、と思ってしまう。

例えば自分がアンジュルムというグループを応援しているのは、過去に和田彩花さん(あやちょ)というリーダーが在籍していたことが大きな理由だ。自分が大学でフェミニズムジェンダー論を学んでいた当時、あやちょはアイドルでありながらアイドルの在り方について疑問視をしながら活動していた。それは彼女自身が美術史を学ぶ大学生でもあったことも影響しているだろう。グループを卒業した理由も、そうしたフェミニズム的視点をもってグループをまとめあげてしまうのは私物化になってしまうのではないか、という理由だった(と思う。間違えていたらすいません)。卒業後の彼女は「わたしはアイドルだ」と改めて宣言し、アイドルの解釈の拡大のため様々な活動を行っている。こうした象徴的なリーダーが卒業してしまった後のアンジュルムでは、あやちょの薫陶が素晴らしい形で引き継がれていった。新リーダーが竹内朱莉さん(たけちゃん)になってからは、一時期メンバーの卒業が相次ぎ、追っかけるのがしんどくて距離をとったこともあった。その間にも個性豊かな新メンバーが入り、徐々にたけちゃん体制が確立されていった。たけちゃんの方針はあやちょのそれとはまったく別モノではあるのだが、まったく失ったわけではない。各々のメンバーが個性を伸ばしながら、自由に活動できてグループ愛もある。アンジュルムのパフォーマンスを観るだけで幸せになるし、彼女たちが生きている世界が永遠に平和であってほしいと願う。この世は全部クソだけど、アンジュルムが生きているなら自分も生きていいかな、なんて思う。鷲崎健さんがWUGのライブを観た感想で「アイドルの究極は生命賛歌」と言っていたけれど、本当にその通りだ。

先日、現リーダーのたけちゃんも卒業を発表した。あの頃出会ったアンジュルムのメンバーがどんどん卒業していく。けれど自分はアンジュルムを応援することはやめないと思う。そこに赤色の意思が見える限り、応援したいと思い続ける限り。